解説編-5.愛という名の「取引」

 あなたは、次の事例に似たことで、怒りや憤りを感じたことがありませんか?

  • 恋人が連絡を入れてくれないので怒っている
  • 夫が家を顧みないで、外で遊び回っている悲しい
  • 子供が自分の言うことを聞いてくれないので、つい感情的に叱ってしまう
  • 仕事に疲れて帰宅すると、妻が高いびきで寝ているのであきらめともつかない怒りを感じる
  • 帰宅すると、妻がいつも不機嫌な顔をしているので帰宅したくなくなる

 いかがですか?そして、あなたは、その人を{本当に}愛していますか?

 多くの人は、いつも「私がこんなにあの人のことを大切も想い、愛しているのに、あの人は私のことを愛しているの?」という、漠然とした不安や悩みを抱えています。なぜ、このように思ってしまうのでしょうか?

 実は、この不安こそが回答なのです。

 この不安の根底には、自分の愛情に対して、愛を持って返してほしいという、取引行為があります。誰もが知っていることでしょうけれども、「愛とは、まったく見返りのない行為」です。極論すれば、愛とは、愛そのものであって行為でもありません。つまりは、行為でないのもに行為としての見返りを求めたその瞬間、それは愛ではなくなっているのです。それは、愛という名を借りた、ただの取引行為です。

 先ほどの事例を見てみましょう。「恋人が連絡を入れてくれないので怒っている。」、この感情の背景には、「私はあなたのことをこれほどに愛して、いつも連絡を入れているのに、それにくらべて、あなたはまったく連絡をくれない。あなたは、私と同じようにするべき。」という気持ちが隠されています。
  「夫が外で遊び回っていて、悲しい」という感情の背景には、「私はこんなに家事全般やっているのに、あなたは外で遊び回っている。私にだって外に出る権利がある。どうして、あなたばかりが権利をつかっているの。あなたも課程のことをするべきだし、私だって遊びに行きたい。」という気持ちがあります。
  つまりは、どれもが、「自分がここまでしてあげるから、相手にもここまでしてほしい。」、「相手がここまでしてくれるから、自分もここまでしてあげる。」という、交換条件の取引なのです。

  あなたが、ここで思っている愛情とは、例えば、野生の動物を檻に入れて、檻の中で精一杯かわいがるという行為となにも変わりありません。檻の大きさはあなたが決めた大きさです。相手の思いはそこには反映されていません。しかも、ほとんどの場合、野生の動物は檻に入れられることを好まないでしょう。野生の動物は広大な草原で暮らすことを望んでいるのです。

 本当の愛とは、環境は厳しいかもしれないけれども、野生の動物が広大な草原で自由に暮らしていくことを、ただ見守り続けることだけです。そして、相手があなたのもとへ帰りたいと思って、あなたのもとを訪れた時に、無条件で受け入れてあげることだけなのです。

 あなたがこれまで思ってきた愛情という名を借りた、ただの取引行為は、あなたの決めた檻の中に相手がいるときにだけ有効になるというものです。

● 私が愛しているのだから、彼も同じように私を愛して当然だ。

● 私が愛しているのだから、子供は私の言うことを聞いて当然だ。

 あなたは、なんど、こうした言葉を心の中でつぶやいてきたことでしょうか。けれども、残念ながら、彼は彼であって、あなたではありません。あなたと彼の間には、何か共通した認識のようなものが存在するように思うこともあるでしょう。しかし、彼の認識の仕方と、あなたの認識の仕方は確実に異なります。彼は、あなたの「モノ」ではなく、彼自身であることを受け入れなければなりません。彼は、彼自身の持つ広大な草原で自由に暮らしていくことを望んでいるのです。 同じように、たとえ血肉を分けた自分の子供であっても、子供にはそれぞれ確固たる人格が存在します。

 理解し、受け入れて下さい。あなたができることは、たった一つなのです。相手を自由にすること。全くの自由にすることです。あなたにその勇気があるのならば、その勇気をもって、一歩踏み出すとき、あなたは計り知れない本当の「愛」を得ることでしょう。

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